TOKYO DOME CITY TOKYO DOME CITY

東京ドームシティ メインメニュー

閉じる

閉じる

東京ドームシティ公式SNS

ザ・インタビュー

ちばてつや 「後楽園ホールにはたくさんのドラマがあり、人生がある」

『あしたのジョー』は、ボクシング漫画の最高傑作とされる。それどころか、矢吹丈という主人公は、あらゆるカテゴリーを超え、巨大な漫画という世界が生んだ最大のヒーローと言えるのかもしれない。1968年1月から5年5ヵ月の間、『少年マガジン』(講談社)に連載された、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや作画の作品は、いまだに熱い魂の叫びを、われわれに伝えてくれる。そして、プロボクサー・矢吹丈もまた後楽園ホールで育ち、夢を追いかけ、世界タイトルマッチへと羽ばたいていったのである。ウルフ金串をトリプルクロスカウンターで沈めたのも、あの力石徹の死で閉じる壮絶なドラマも、やはりここ後楽園ホールのリングでのことだった。

一番大切なのは勝敗よりもプロセス 努力している姿こそ美しい

ついこの間、後楽園ホールに行ってきたんですよ。『あしたのジョー』を連載しているころは、よく通ったものです。誰の試合を見たのかというところまでは、はっきりとは憶えてはいませんけれど。試合を見て何かを感じることも大切でしたが、「看板はどういうふうにかかっていたんだっけ」「あの角っこはどうなっていたのかな」とか、イメージがはっきり浮かばないときにも行きましたね。多いときには週に2度も3度も、ちょっとでも確かめたいことがあると行っていましたね。連載が終わってからも、知人のジムの会長さんからチケットをもらったりして、ポツリポツリと行ってはいるんですが、それでも何年に一度くらいですか。

久しぶりの後楽園ホールは、昔のままでした。懐かしかったですね。控え室なんか、あんまり変わっていないんじゃないですか。会場に向かう階段が汚れていたり、壁とか、ロッカーとか、あちらこちらがへこんでいる。ああ、負けてしまったボクサーが殴ったり、蹴ったりして、自分の力を出せなかった悔しさを紛らわせたのかなと、あのころと同じように感じました。

そんな疵を見ながら思うんです。実はプロセスが一番大事なんじゃないか、と。人生というもので、誰もが頂点に立てるわけじゃない。成功する人というのは、全部の人間の1%か2%に過ぎないでしょう。ボクシングならなおさら難しいかもしれません。残り90%以上の敗れ去っていった者たち、その彼らの思いが後楽園ホールの壁にはしみついているように思えて仕方ないんです。
試合前のビリビリした雰囲気も、昔と一緒でした。戦いを控えて、緊張しているでしょう。恐怖もあるはずです。うかつに声もかけられません。そして試合が終わり、勝った者は喜び勇んで、負けた人は情けなくて目をこすりながら、それぞれ控え室に帰ってくる。あそこにはドラマがいっぱいあります。

ぼくはそういうドラマの中から、成功できなかった連中のことも描きたいんです。ジョー、あいつも最後には負けてしまうんですが、『あしたのジョー』の中には挫折する人間が何人もいますよね。無残にKOされるウルフ金串、鑑別所でジョーと戦った青山もそう、それからマンモス西。負けてしまって落ちぶれてしまった。力がないのに一生懸命に努力していた。本当は太る体質なのに、厳しい減量を強いられて、耐え切れずについうどんを食べてしまった…。彼らは途中で挫けてしまったけれど、どこか愛らしくもあって。
勝負の世界というものは、敗者には何もやるなというのが本当かもしれません。けれど、ぼくはどうしてもそういう気持ちにはなれない。努力している姿は、最後の勝敗は別にして、何よりも美しい。一生懸命にやっている人たちを描いていたい、とぼくはそう思っているんです。

ジョーのように完全燃焼したい

[写真]

“夢に向かってどれだけひたむきなのか。人間の表情がたくさんあって、ドラマを噛みしめられるのが後楽園ホールだと思う。”

後楽園ホールが昔と変わったところといえば、観客席ですか。見に来ている人がずいぶん変わりました。最近は若い人が多いですよね。昔はどこか怪しい雰囲気でした。そうですね、たとえて言えば、下町のおっちゃんたちばかりというのかな。今は禁煙になっていますが、タバコの煙がもうもうと立ち込めて、自分の仲間をがさつな言葉で応援したり、そこらで酒を瓶ごとラッパ飲みしていたり。ぼくも下町育ちだから、そういう場所は決して嫌いじゃなかったんですが。
それにコーナーの下あたりに、天井から円筒がぶら下がっていましたね。30秒経過するごとにランプが一つ一つ消えていくんです。ああ、ボクサーに残り時間を知らせるアイデアなのかなと思っていたんですが、今はもうなかったんでしたっけ。

ジョーのモデルですか? 影響を受けたというのなら一人じゃないですね。
ぼくが初めて関心を持ったボクサーは、沢田二郎といって17歳で東洋ライト級チャンピオンになった選手です。普段は魚河岸に勤めているという彼とぼくは、実は同い年なんですね。新聞か何かで、17歳でチャンピオンに挑戦という話を知って親近感を持ったことを憶えています。最初に見に行ったのも彼の試合だったと思います。ぼくがボクシングを描いた最初の漫画は、『魚河岸チャンピオン』(1965年)というんですが、モデルというわけではないけれど、沢田のことがイメージにあったのは確かでしょう。
ジョーという人物のなかには、その沢田もいます。昭和30年代に人気があった青木勝利、海老原博幸も。メガトンパンチの青木、カミソリパンチの海老原と呼ばれたくらいにパンチがあって、ファイティング原田と一緒に三羽ガラスと言われたんですね。それから世界王者のまま交通事故で亡くなってしまった大場政夫。戦前に拳聖と呼ばれた名ボクサー、ピストン堀口の姿も重なっています。いろんなボクサーたちのイメージがあわさって、ジョーというまったく別の個性が出来上がったんだと思います。

ぼくは漫画を描きながら、ずっと登場人物と会話をしています。彼らが何を考え、どういう思いをしているのか、そう考えながらペンを走らせます。夢にも出てきます。彼らの懸命さに応えてあげたい。だから、ぼくも一生懸命に描きます。1日1日が私の人生そのものです。無駄にはしたくない。お風呂に入るのさえ、ダラリとするのではなく、一生懸命に洗います。ジョーの生き方そのものが完全燃焼だったように、ぼくも与えられた時間の中で、常に完全燃焼したい。それこそジョーのように真っ白になるまで生きて、描いて、そして死んだように眠るんです。

そんなぼくが殺してしまった力石は、苦しかったと思います。ジョーの気持ちに応えるために、ずっと体が大きいのに、あれだけの減量に耐えたんです。水も飲まず、食べたいものも食べず、ジョーとの戦いにすべてを犠牲にしたんです。
力石が後楽園ホールでの試合で死んでしまったあと、実際に葬儀がとりおこなわれたり、むしろジョーより人気があったかもしれませんね。初めてジョーと戦うのは鑑別所の中なんですが、原作者(高森朝雄)としては、ジョーが乗り越えなければならないひとつの壁というキャラクターだったんだと思います。ところが、その力石が人気が出てしまったんですね。彼の体格についても、原作者からの指定はなかったと思います。原稿を読んで、私がつい大柄に描いてしまったから、彼に後であんなにつらい思いをさせることになってしまったんです。

裏話になりますが、ちょうどあのころ、テレビ化が決まって、「力石を永遠のライバルとして、生かしておこうじゃないか」という話があったんです。話し合いもしました。けれど、ぼくは殺してしまいました。あんなに苦しい思いを、何度もさせないといけないのか、と。あれでケロッとしていたらうそになる…。ぼく自身の気持に対して、どうしてもうそを描けなかったんですね。

ボクサーにとっての登竜門 夢に向かうひたむきさを見てほしい

[写真]

“1日1日が私の人生そのもの。常に完全燃焼したい。ジョーのように真っ白になるまで生き、描いて、死んだように眠るんです。”

『あしたのジョー』は、ぼくにとってもエポックになる作品でした。それまでのぼくは、どちらかというと典型的な漫画的というのかな、ほのぼのとした、下町的な日常を描くのが好きでした。『ハリスの旋風』の石田国松のようなのどかなやんちゃ坊主が活躍する漫画ですね。もちろん、人間の持つ重く暗い一面も描きたい、という気持ちはあったんです。そのきっかけを作ってくれたのがジョーでしたね。あれから作風も変わったかもしれません。人々の明るい一面も描き続けたいけど、ただ、それだけじゃない。ドスンと重い部分も表現するようになりました。

漫画を読むのは、多くは子供たちでしょう。子供たちの心は非常に純真だし、つまり真っ白です。描き手である私は、そのために心を配っているつもりです。ジョーみたいになりたい、と思ったボクサーの話もよく聞きます。具志堅用高もそうみたいですね。辰吉丈一郎の丈もジョーから取ったんですか? 彼らが子供のころに、ぼくの作った矢吹丈に憧れて、ボクシングを始めたということに、大きな責任を感じるし、またとてもうれしいことでもあります。

だけど、正直なところを言いますと、ボクシングはあまり好きじゃないんです。昔に比べると、確かにルールが改正されたり、ストップが早くなったりしています。ただ、どんなに近代的になろうと、殴り合っていることに変わりはありません。最初に試合を見に行ったときは、なかなかまともに見ることができませんでした。殴り合いを間近に見るのかと思うと、どうしても恐怖感があって、手の震えを止めることができませんでした。もちろん、これが人間の本能です。グローブをつけているといっても、素手に近い拳で打ち合い、そのための技術を懸命に修練して試合を見せる立派なスポーツです。そのことを否定するつもりはありません。ただ、私の中にある恐怖心という話です。でも、これを消し去ることはできないんです。

ボクサーたちにとって、後楽園ホールは聖地であると同時に登竜門でもあります。ジョーも後楽園ホールで育ちましたが、運良く栄光をつかむ者もいれば、負けてしまって肩を落とし、消えていく選手たちもたくさんいます。むしろ無名のまま終わる人のほうが圧倒的に多いのでしょう。

だから、後楽園ホールにやってくるファンの人に言いたいのは、とにかく彼ら、ボクサーたちが、このリングに立つまでのプロセスを見てほしい。むろん、実地に確かめることはできないけれど、心に持ってほしい。ただ殴り合いだけを見たいというのなら、闘鶏と同じです。彼ら、若者たちが頑張っている、持っている夢に向かってどれほどにひたむきなのか、自分の課題に真摯に取り組んできたのか、それから恐怖と戦っているさまを感じてほしい。
そういう人間の表情がたくさんあって、一つ一つのドラマを噛みしめられるのが、後楽園ホールだと思うんです。

ちばてつや氏で忘れられないのは、あるテレビ・ドキュメントである。戦時中、中国で育ったちば氏は、敗戦の後、厳しい迫害のさなかの帰国途上、家族とともにある中国人にかくまわれた。テレビ番組は、遠い恩人を探す旅だった。だが、一足違いでその人物は亡くなっていたことが明らかになる。「つい数年前もここに来た。なぜ、そのときにもっと一生懸命に探さなかったのか」と、静かに泣き崩れたちば氏の姿に、私は思わずもらい泣きをしてしまった。その篤実が、心に響いた。
私がちば氏を取材するのは2度目である。最初に漫画を描いたのは、幼い弟や妹を喜ばせたかったからだ、とそのとき、ちば氏は言っていた。そんな純真を、齢60を越えた今も、この人はいまだに忘れていない。「成功者ばかりがすべての物語ではない」。代表作『あしたのジョー』を語るときも、ちば氏は敗れ去ったボクサーの痛ましい純情に心を寄せる。私は再び、胸を打たれた。
(インタビュー 2002年1月7日)

[写真] あしたのジョー(講談社コミックス)

大都市東京のドヤ街に無一文で訪れた少年、矢吹丈(ジョー)は、腕っぷしの強さと気風のよさでちびっこたちのボスとなる。元ボクサーの拳キチこと丹下段平はその腕っぷしに惚れ込み、ジョーを名ボクサーに育てて自分の昔の夢を果たそうとする。だが、ジョーは毎日無法な行動を繰り返し、少年鑑別所に送られた。ある日、院のボスで元6回戦ボクサーの力石徹とケンカし、強烈なパンチを浴びてたたきのめされた。初めて敗北の味を知り、力石への復讐を決意したジョーは、段平の通信教育で猛練習を始めた。その折、院内でボクシングの試合が行われ、力石に挑戦したジョーは引き分ける。たがいに出所後、プロボクサーとして公開リング上で対戦を誓った。

宿敵力石との対決を念願に丹下拳闘クラブでプロボクサーへの練習に励み、ついに強打の新人としてデビューしたジョー。まもなく新人王ウルフ金串の挑戦を受け、壮絶な打ち合いの末、見事なKO勝ちで殺し屋ジョーの異名をとどろかせた。

一方、力石徹も連戦連勝の無敵ぶりを発揮していたが、ジョーとの対戦に執念を燃やし、体重をジョーと同じバンタム級に下げるために、耐え難い減量苦と戦いながら練習を続けていた。そしてついに運命の対決の日がやってきた。試合は息詰まる熱戦となったが、最終回、ジョーは力石の猛打をあびてKOされた。だが、勝った力石も試合終了後、ジョーの強打と厳しい減量がもとで倒れて絶命した。

その死にはげしいショックと虚脱感から一度はリングを捨てたが、段平らの説得で再びリングに返り咲くジョー。一時は力石の死の影が消えず、ここ一発のパンチが使えなくなってどさまわりのボクサーへと落ちぶれていったが、南米ベネズエラの強豪の対戦相手に闘志をかきたてられ、再び野生の男によみがえる。

つねにリングに命を賭け、不屈の闘志で戦うジョーはついに東洋の王座を獲得。夢に描いた世界戦にも挑戦するが――。度重なるダウンを奪われながら、「真っ白い灰になるまで燃え尽きたい」という言葉通り、最後は完全燃焼したジョーだった。

写真提供/ボクシング・マガジン

  • 本サイトに掲載の記事・写真の無断転載は固く禁じます。
[写真]

ちばてつや:プロフィール

ちばてつや 漫画家。本名:千葉徹弥。
1939年1月11日、東京・築地生まれ。少年時、両親とともに満州(現・中国東北地方)で過ごし、終戦後に帰国。16歳でプロデビュー。主な作品はこの『あしたのジョー』のほか、『ちかいの魔球』『ユキの太陽』『紫電改のタカ』『ハリスの旋風』『おれは鉄兵』『のたり松太郎』など。講談社児童まんが賞、講談社出版文化賞、日本漫画家協会特別賞、小学館まんが賞、文部科学大臣賞ほか多数の表彰を受けている。「完全燃焼」が座右の銘である。

ザ・インタビュー