後楽園ホールアーカイブス

ザ・インタビュー

ファイティング原田 「ボクシングといえば後楽園。ぼくの人生の4分の3を象徴している」 歴代の世界チャンピオンの中でももっとも偉大な名選手として、ボクシングファンに語り継がれるファイティング原田さん。日本人初の2階級制覇を成し遂げ、アメリカのボクシング殿堂に選ばれた唯一の日本人ボクサーだ。引退後は若手ボクサーの育成、解説者としても活躍するそのボクシング人生は後楽園とともにあった。

ぼくの時代はいいライバルに恵まれた

ぼくが世界の頂点に立てたのはライバルたちのおかげ。でも、ボクシングはそんなに甘いものじゃない。最後にはより努力している者、苦しんだ者が勝つ。

エデル・ジョフレからバンタム級の世界タイトルを取ったとき(1965年5月17日)は、マスコミが「この野郎」と思う対象でした(笑)。3-7、2-8で不利と書かれていましたから。それも当然だったんでしょう。なにしろジョフレは強かったんです。49戦不敗(47勝37KO2引き分け)、8度の防衛戦はすべてKO勝ち。2年前に来日して、青木勝利も左フックのボディブロー一発でKOしています。
「同じ人間だから、何とかなるはず」と思ってぼくは戦いました。ジョフレはやはり強いし、うまかったけど、攻撃こそ最大の防御と攻め抜きました。そしてぼくは勝ちました。試合後の記者会見で、「ざまあみろ」と言いたかったけどやめました(笑)。そういう気持ちにまで自分を高めてくれたのもマスコミのおかげかもしれません。

ぼくがそういうふうに世界の頂点で戦えるようになったのも、ライバルたちのおかげだと思います。あの時代、海老原博幸(世界フライ級チャンピオン)、青木勝利(東洋バンタム級チャンピオン)にぼくを加えて3羽ガラスと呼ばれたんです。この3人の中では、素質的にはぼくがドンケツかもしれません。海老原はスピードがあって、とにかくパンチが切れました。青木はドスンドスンと響くような重いパンチのハードパンチャーでした。そのパンチのすごさは、それぞれ『カミソリ』『メガトン』と呼ばれてね。ぼくにはそういうパンチがありません。最初のころは観客動員でも、彼らに勝てませんでした。でも、だからこそ負けたくなかったんです。

海老原と戦ったのは、後楽園ジムで行われた東日本新人王戦決勝(1960年12月24日)でした。やはりパンチが強くて、ぼくもぐらつきましたが、2度のダウンを奪って勝つことができました。青木と対戦(1964年10月29日)したのは、ぼくがバンタム級に転向してからですね。彼との対戦でも初回にいいパンチを食ったんですが、3回でKO勝ちしたんです。

よく憶えているのは青木戦です。実はこの試合だけは、どうしても負けたくなかったんです。彼は練習嫌いを公言していました。ぼくとの対決が決まったときも、練習しなくても3回までに勝てると言っていたんです。だから、ぼくも3回KOを予告しました。予告KOをやったのは、あの試合だけです。

とにかく「ボクシングはそんなに甘いものじゃない」と思っていました。もし、彼が練習もしないでぼくに勝ったら、一生懸命にがんばっているほかの人はどうなる、ボクシング界のためにならない、とそう思ったんです。もちろん、その時点ではそんなに大局的に物事を見ていたわけではなく、ただ自分が勝ちたいという一心だったのかもしれません。あとになって、さまざまな感情が入り混じってそう考えるようになったんでしょう。ただ、確かなのは、最後にはより努力している者、苦しんだ者が勝つ、ということを、ぼくの手で証明したかったということです。

新人の時代から青木、海老原と比較されました。わんちゃん(王貞治)と長嶋(茂雄)さんの関係と同じです。いいライバルがいるからこそ、互いに刺激しあって、そしてともに強くなっていくんです。そして自分には、青木や海老原に比べて、足らない部分があると切実に感じていました。足らないものは、練習で培うしかありません。だから彼らの1.5倍は練習していました。さらにその成果を表すには、試合で勝つしかありません。