後楽園ホールアーカイブス

ザ・インタビュー

竹原慎二 「デビュー戦から世界タイトル戦まで後楽園ホールで勝ち取った」 ミドル級で世界一になるのは無理、そんな常識をうち破った元世界ミドル級王者、竹原慎二さん。だれもが予想しなかった夢物語を後楽園ホールで現実にした。多くのファンに勇気と感動を与えたその名勝負をボクシングへの熱き思いを語る――。

最後まで燃焼しつくしたい それがぼくのボクシング

最後まで戦って勝ったから、より意味のある勝利。打たれても、やり返してやれ。後楽園ホールだから、そういう気持ちでいられた。

現役時代のぼくは、燃焼しつくしたいとばかり考えていました。ボクシングは打たせたらいけない、と言われます。たしかにその通りなんでしょうけど、とにかく目いっぱい打ち合って、最後は倒して勝ちたかった。そうできなければ、自分自身を納得させることができないと言うのか。1ラウンドであっさりとKO勝ちしたりすると、勝ったこと自体はうれしいんですが、心のどこかに歯がゆさが残ってしまいましたね。

東洋太平洋チャンピオンになった李成天戦は、みんな激戦だったと言ってくれます。6度目の防衛戦でもう一度彼と戦ったときも、ダブルノックダウンがあったりして、もっと激しい戦いだったと言われます。李はパンチがすごくあって。それに彼は背が小さかったから、ぼくの方がリーチもずっと長かったんです。アウトボクシングをした方が楽に戦えたじゃないか、と周囲には言われましたが、正面から打ち合ったことがよかったと思ってます。今だから話せますが、李との試合のときは故障していて、最初から苦戦は覚悟していたんです。そのせいで、今でもいい試合と言われるような戦いになったのかもしれません。それに、あのときから左目がおかしくなり、あとで網膜はく離とわかって、ボクサー生命を縮めることになったんですけど。

カストロとの戦いもそうです。一番満足できたことは、12ラウンドまでフルに殴り合えたこと。チャンピオンは並外れたタフガイだと評判だったし、打ち合いにはずば抜けて強いと言われていましたね。予想では圧倒的に不利でした。絶対に勝てない、判定までたどり着くこともありえない、アウトボクシングに徹すれば一縷の望み、と新聞や雑誌にさんざんに書かれていました。自分では死んだつもりで戦ってやる。アウトボクシングをやれと言うけど、ふだんあまりフットワークを使わない選手が、いまさらよそ行きのボクシングをやっても仕方ないと思っていました。打ち合いが得意と言うなら自分もそうだから、正面からやり合って相手のペースを切り崩そうと。それからボディを狙おうと作戦を立てて、ジムでは左フックと右アッパーを徹底して練習してましたね。

その練習が実を結んで、3ラウンドに左フックのボディブローでダウンを奪ったんですが、結果的にはKOにならなくて良かったんでしょうね。あそこで終わっていたら、ラッキーパンチと言われていたかもしれません。実際に、後で「カストロの腹はぜい肉でダブついていた」と書いたところもあったし。あの後も打ち合って、最後まで戦って勝ったから、より意味ある勝利じゃないんですか。効いたパンチもありましたけど、多少打たれても、それなら、やり返してやれという気持ちで戦えたんで。いつもの後楽園ホールだから、そういう気持ちでいられたのかもしれません。

世界タイトルを失ったのは、横浜アリーナでしたね(1996年6月24日、ウイリアム・ジョッピーに9回TKO負け)。1万4000人くらいの人が入って、後楽園ホールとは違って、まずは雰囲気にのまれてしまいました。それにぼくの左目はカストロ戦から視力が低下してきていて、精神的にも弱くなっていました。それとは逆にジョッピーはぼくがカストロ戦で燃えたように、死んでもいいからという気持ちで向かってくるし、こっちは怪我をしたくないという気持ちで、すでに負けていたかもしれない。結局、レフェリーが試合を止めてくれたんですが、あのときはホッとした気分もありました。
 結局、この試合が最後になったんですね。試合後の検査の結果、網膜剥離と診断されて…。まだ24歳だったから、もちろん、もっとやりたい気持ちもときどき沸いてきましたが、ぼくの場合は網膜はく離がいい意味で踏ん切りをつけてくれたような気がします。