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4月21日 日本プロボクシング・コミッショナーが設立される。 |
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5月19日 日本初の世界タイトルマッチが後楽園球場の特設リングで行われ、白井義男がチャンピオンのダド・マリノ(米国)を15R判定で敗り、世界フライ級王座を獲得。日本人最初の世界王者の誕生に、4万人の観衆が興奮と感動に沸いた。
11月15日 白井義男が同球場で初防衛に成功。その後、4度目の防衛まで成功させたが、54年5度目の防衛でタイトルを失う。 |
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1953年7月
力道山が日本プロレス興行を設立。翌年、日本で初めてのプロレス興行が行われ、テレビ放映される。日本のプロレスの幕開け。
1954年12月22日
元関脇・力道山が柔道の鬼・木村政彦を破り、初代日本ヘビー級王者となる。
1957年10月7日
後楽園球場でNWA世界選手権ルーテーズ対力道山戦が行われ、テレビの視聴率はなんと87%にもなった。
1960年4月ブラジルよりアントニオ猪木入門。ジャイアント馬場入門。
1962年〜63年
力道山が国民的英雄となる。まさに力道山プロレスの絶頂期だった。
1963年12月
力道山、暴漢に刺され、突然死去。プロレス界は大揺れとなる。その後、豊登の時代が続く。後楽園ホールでもプロレス興行が始まる。 |
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| 6月8日
旧講堂館を改装して、後楽園ホールの前身、後楽園ジムナジアムが開場。東洋ボクシング界の檜舞台として毎週「ダイナミック・グローブ」「東洋チャンピオン・スカウト」を開催し、試合の模様はテレビを通じて放送された。 |
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| 12月24日
のちに世界王者となる2人、ファイティング原田とカミソリパンチの海老原博幸が東日本新人フライ級決勝戦で対決。原田が新人離れしたボクシングで6回判定勝ちを収めた。翌年、2人は青木勝利とともに「軽量三羽烏」とうたわれ、原田は2年後に、海老原は3年後に世界フライ級チャンピオンとなる。 |
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1月15日
後楽園ホールが開場した。のちに、ボクシングのメッカとなる――。
6月24日 日本の切り札と呼ばれたスピードスター、矢尾板貞雄は、東洋フライ級タイトルの5度目の防衛戦をプリモ・ファミロ(比国)相手に行い、軽快なフットワークとシャープなパンチで判定勝ちを収めた。10月には2度目の世界挑戦が用意されていたが、3日後に突如引退し、ファンに惜しまれた。 |
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| 3月13日
拳聖と呼ばれたピストン堀口の13回忌記念試合、高山一夫対勝又行雄のライバル対決は壮絶な打撃戦となる。世界に2度挑戦し、圧倒的有利と言われた高山が東洋J.ライト級チャンピオンの勝又を2度ダウンさせたが、勝又の一撃で壮絶な大逆転KO負けとなった。 |
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| 8月19日 空位の日本フェザー級タイトルを争った菊地萬蔵と小林弘の10回戦は激闘だった。結果は闘志むき出しの菊地の判定勝ち。この一戦は年間最優秀試合に選ばれる。小林はのちに世界J.ライト級チャンピオンとなり、菊地は当時後楽園の敷地内にあった田辺ジムの会長になった。 |
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3月25日 メガトンパンチの異名を持つ青木勝利が前年失った東洋バンタム級王座を奪回した。素質は世界王座に輝いた三羽烏の2人のライバル以上と言われたが、世界チャンピオンには届かなかった。
6月22日 『根性男』『ナベコン』と呼ばれた渡辺亮が、比国の誇る強打の東洋J.ウェルター級王者バート・ソモジオに挑戦。渡辺はKO負け寸前になりながら驚異的な粘りを見せて逆襲に転じ、5回、総立ちのファンの前、劇的な王座奪取を果たした。
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