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後楽園ホールの格闘史

1970年~1979年

  • ボクシング

  • プロレス

1970年 1月25日

海老原博幸が引退。27日、ファイティング原田が引退し、日本中を沸かせた三羽烏時代は終わった。

2月25日

日本ミドル級タイトル決定戦で、カシアス内藤が赤坂義昭を8回KOに降して新チャンピオンに。カシアス内藤はのちに、沢木耕太郎著の復活ドキュメント『一瞬の夏』に登場し、ファン層を広げた。

8月23日

後楽園ホールで初の世界戦が行われる。WBA世界J.ライト級チャンピオン、小林弘が、アントニオ・アマヤを相手に5度目の防衛戦を行い、きわどく判定勝ちを収めた。その後、後楽園ホールで行われた世界タイトルマッチは31にも上る。

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アマヤの鋭く巧妙なジャブに苦しみ、さらに大量出血した小林弘だが、判定勝ちを収めて防衛に成功。小林は黒星を肥料にして成長したことから、『雑草』と言われた。

1971年 5月28日

日本J.ミドル級チャンピオン、輪島公一(後に功一)の力強い連打が、挑戦者星野哲雄を2回KOで切って落とす。その後、世界チャンピオンになって、蛙跳びなどの変幻自在なボクシングと、リング内外での知略で2度王座に返り咲いた。

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輪島は日本タイトル5度の防衛戦をすべてノックアウトでクリア。『根性の男』とも言われた頭脳的な変速ファイターで、パワーと努力、そして勇気のある世界チャンピオンとして人気を呼んだ。

1972年 3月16日

モハメド・アリの公開練習が行われ、1200人のファンが集まった。

10月30日

日本チャンピオン・カーニバルが初めて行われ、一晩にJ.ライト、J.ウェルター、ウェルターの3階級の日本タイトルマッチが開催された。

1973年 2月15日

ミュンヘン五輪フェザー級代表のロイヤル小林がデビュー。アマチュア時代から『KO仕掛人』を名乗ったが、バロン熊沢を相手に小林のパンチは爆発せず、やっと判定勝ちにこぎつけた。2戦目からは本領を発揮し、連続KOは11試合続いた。のちに世界チャンピオンとなる。

1974年 5月28日

のちに世界チャンピオンとして注目される具志堅用高のデビュー戦が行われた。2年後、具志堅はWBA世界J.フライ級王座を獲得。その後、日本人王者として最多記録の13回連続防衛を成功させ、一時代を築いた。

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このデビュー戦から3年目、わずか9戦目でWBA世界J.フライ級チャンピオンになった具志堅。左ストレート、右フックは最軽量ばなれした切れとパワーを誇り、13度の防衛という金字塔を打ち立てた。

6月9日

『ロープ際の魔術師』と言われ、一瞬の逆転KOを演出するジョー・メデルは日本でもっとも愛された外国人ボクサー。そのメデルが36歳の時、ロイヤル小林と対戦し、6回終了棄権TKOで敗退。リング上から引退声明。ロイヤル小林は2年後世界チャンピオンになる。

1975年 3月2日

のちに世界チャンピンとなる工藤政志が尾崎信雄を10R判定で敗り、日本ミドル級タイトルを獲得。以後7度の防衛戦を後楽園ホールで成功させた。

3月2日

初代日本J.フライ級王座決定戦は史上有数の名勝負になる。身長145センチの天龍数典のシャープなパンチが光るが、対戦相手の渡辺功も前進をやめず、ダウンの奪い合い。判定は僅差で天龍に下ったが、ファンの興奮はいつまでも続いた。

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7回に渡辺の執念が実ってダウンを奪うが、天龍も立ち直って反撃。10回、またしても渡辺の右が火を噴いて天龍はダウン。判定は天龍に下ったが、両者の激闘にファンの興奮はやまなかった。

1976年 10月2日

日本ミドル級王者フラッシャー石橋が東洋ウェルター級王者の龍反町とノンタイトルで対決した。立川基地に勤める黒人の石橋は反町を打ちまくったが、一瞬のスキをついて反町の右ストレートが炸裂。石橋は足を折りたたむように崩れ落ちた。

12月14日

WBC世界フライ級王座を手放して以来6勝(すべてKO)1敗の成績を誇っていた小熊正二が、中堅の触沢公男と対戦。触沢の粘り強いアタックで8回に打ち倒されてしまった。小熊はこの一戦から3年後、大熊と名前を変えて世界王座に復帰する。

1977年 12月3日~4日

日本ボクシング・コミッション創立25周年記念第1回チャンピオンカーニバル、2日間で9つの日本タイトルマッチが行われる。

4月10日

用皆政弘対中根光幸のライト級10回戦も激闘だった。アマチュア出身ながら一撃の強打を持ち味にした用皆と、ハワイ帰りの技巧派、中根は真っ向から打ち合い、ともにダウン寸前になること数え切れず。10回、用皆は中根に猛打を浴びせてKO勝利を手に入れた。

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激闘という言葉が当てはまる試合だった。互いに得意とする左フックが再三再四相打ちになり、何度もダウン寸前に。両雄は4度対戦し、用皆が3勝1敗と勝ち越している。

1978年 4月28日

日本ウェルター級タイトルマッチは、世代交代を告げる一戦だった。12度の防衛に成功してきた辻本章次と、アマチュアから転向後6戦6KOの亀田昭雄の顔合わせ。ふたりのサウスポーの対戦は、21歳と辻本より8歳年少の亀田の若さが爆発し、初の王座に輝いた。

5月25日

のちに世界チャンピオンとなる友利正のデビュー戦が行われ、高橋金美に4R判定勝ちする。

6月6日

アマチュア五輪代表のエリート、瀬川幸雄は中堅の国重講司と対戦。だれもが予想したとおり瀬川のワンサイドだったが、最終10回の終盤国重に逆転KOされ、ドラマチックな結末を迎えた。

12月28日

のちに世界チャンピオンとなる渡嘉敷勝男のデビュー戦が行われ、浜田信男に4R判定勝ちする。沖縄出身の渡嘉敷は具志堅の後継者として3年後、具志堅が失ったWBA世界J.フライ級王座を奪回する。

1979年 4月26日

三原正がプロ5戦目で東洋太平洋J.ミドル級タイトルに挑戦し、韓国のチャンピオン、林載根にKO勝ちする。5戦目での東洋太平洋王座奪取は、日本人としては史上最短記録。三原は3年後世界チャンピオンとなる。

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日本、東洋太平洋、そして世界タイトルの三冠を手にした三原。東洋太平洋王座を6度防衛したのち、WBA世界J.ミドル級チャンピオンに。

1972年 3月

猪木が新日本プロレスを、10月には馬場が全日本プロレスを旗揚げ。翌年日本プロレスは崩壊する。ジャンボ鶴田が全日本プロレスに入門する。

1973年

全日本にはアブドーラ・ザ・ブッチャーが定期的に参戦し、人気を呼ぶ。

新日本プロレスに長州力が入門、74年にデビュー。のちに人気選手となる。

1974年

ストロング小林、大木金太郎が台頭。アントニオ猪木戦で話題を呼ぶ。

1975年3月~76年

女子プロのマッハ文朱が人気を呼ぶ。

1976年 2月

ビューティ・ペアが結成され、77年には人気が爆発。以後、空前の女子プロレスブームが巻き起こる。『かけめぐる青春』の歌を聞いてホール内でも失神する女子高生が後をたたなかった。

1977年

新日本プロレスに前田日明が入門、78年にデビューする。

1978年

藤波辰巳が台頭。

写真提供:東京ドーム/ボクシング・マガジン

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