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後楽園ホールの格闘史

1952年~1969年

  • ボクシング

  • プロレス

1952年 4月21日

日本プロボクシング・コミッショナーが設立される。

5月19日

日本初の世界タイトルマッチが後楽園球場の特設リングで行われ、白井義男がチャンピオンのダド・マリノ(米国)を15R判定で敗り、世界フライ級王座を獲得。日本人最初の世界王者の誕生に、4万人の観衆が興奮と感動に沸いた。

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5月19日夜8時過ぎ、世紀の一戦は開始された。1時間にわたる死闘の結果、白井義男はダド・マリノを3対0の判定で下し、16代世界フライ級チャンピオンに。

11月15日

白井義男が同球場で初防衛に成功。その後、4度目の防衛まで成功させたが、54年5度目の防衛でタイトルを失う。

1958年 6月8日

旧講堂館を改装して、後楽園ホールの前身、後楽園ジムナジアムが開場。東洋ボクシング界の檜舞台として毎週「ダイナミック・グローブ」「東洋チャンピオン・スカウト」を開催し、試合の模様はテレビを通じて放送された。

1960年 12月24日

のちに世界王者となる2人、ファイティング原田とカミソリパンチの海老原博幸が東日本新人王フライ級決勝戦で対決。原田が新人離れしたボクシングで6回判定勝ちを収めた。翌年、2人は青木勝利とともに「軽量三羽烏」とうたわれ、原田は2年後に、海老原は3年後に世界フライ級チャンピオンとなる。

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ファイティング原田(左)の初々しい勇姿。中央に菊地萬蔵の姿も。原田はのちに世界フライ級チャンピオン、世界バンタム級チャンピオンの2階級制覇を成し遂げた。

1962年 4月16日

後楽園ボウリング会館(現・後楽園ホールビル)5F・6Fに移り後楽園ジムナジアムが開場。のちに、ボクシングのメッカとなる――

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1、2階合わせて1650の観覧席、立ち見席ともで2500人収容の後楽園ジムナジアムの内部。テレビ放映を通じて全国のボクシング・ファンになじみ深い場所となった。

6月24日

日本の切り札と呼ばれたスピードスター、矢尾板貞雄は、東洋フライ級タイトルの5度目の防衛戦をプリモ・ファミロ(比国)相手に行い、軽快なフットワークとシャープなパンチで判定勝ちを収めた。10月には2度目の世界挑戦が用意されていたが、3日後に突如引退し、ファンに惜しまれた。

1963年 3月13日

拳聖と呼ばれたピストン堀口の13回忌記念試合、高山一夫対勝又行雄のライバル対決は壮絶な打撃戦となる。世界に2度挑戦し、圧倒的有利と言われた高山が東洋J.ライト級チャンピオンの勝又を2度ダウンさせたが、勝又の一撃で壮絶な大逆転KO負けとなった。

8月19日

空位の日本フェザー級タイトルを争った菊地萬蔵と小林弘の10回戦は激闘だった。結果は闘志むき出しの菊地の判定勝ち。この一戦は年間最優秀試合に選ばれる。小林はのちに世界J.ライト級チャンピオンとなり、菊地は当時後楽園の敷地内にあった田辺ジムの会長になった。

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3回に小林の右アッパーで倒された菊地は、7回にボディブローで逆転のダウンを奪う。その後も打ちつ打たれつのシーソーゲームは続いたが、最後は菊地の判定勝ちとなった。

1964年 3月25日

メガトンパンチの異名を持つ青木勝利が前年失った東洋バンタム級王座を奪回した。素質は世界王座に輝いた三羽烏の2人のライバル以上と言われたが、世界チャンピオンには届かなかった。

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三羽烏の中でもパンチの重さはぬきんでいていた青木勝利。10回にはそのメガトンパンチが炸裂し、カーリー・アグイリーを顔面からフロアにたたきつけた。

6月22日

メガトンパンチの異名を持つ青木勝利が前年失った東洋バンタム級王座を奪回した。素質は世界王座に輝いた三羽烏の2人のライバル以上と言われたが、世界チャンピオンには届かなかった。

1965年 6月3日

東京五輪バンタム級金メダリストの桜井孝雄がデビュー。ベテランのアトム畑井との6回戦、桜井は2回にダウンを奪って大差の判定勝ちを収めた。3年後に世界王座にも挑んだが、判定で敗れてしまった。

1966年 9月29日

ハワイ生まれの日系三世、藤猛は、ハンマーパンチと名づけられた豪快なKOパンチでブームを巻き起こした。ロッキー・アラーデの持つ東洋J.ウェルター級タイトルに挑んだこの一戦も空前の人気を呼び、KO勝ちを収める。藤は半年後に世界チャンピオンになる。

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後楽園ホール中がおしくら饅頭になるほどの入りとなった一戦。藤はその期待に応え、挑戦者をロープ外にたたき出したあと、失神KO勝ちを収める。

1967年 2月20日

ローマ五輪でボクシング競技日本初のメダル(銅)を獲得した日本フライ級王者、田辺清が、WBA世界同級王者のオラシオ・アカバロ(亜)とノンタイトルで対戦。6回TKO勝ちの大殊勲を上げる。だが、網膜はく離のためにこの一戦を最後に引退。悲運の拳豪と呼ばれた。

1968年 6月13日

鋭いパンチで「精密機械」と呼ばれた沼田義明。小林弘との日本人同士初の世界戦で世界J.ライト級王座を失ったが、韓国の徐強一と対戦し、窮地を一発のパンチで逆転した。その2年後、再び世界王者に返り咲く。

11月18日

無名のまま米国に渡り、ロスでWBA世界フェザー級チャンピオンとなった西城正三の凱旋帰国第1戦。比国王者のフラッシュ・ベサンデの重いパンチに大苦戦したが、8回に逆襲の連打で逆転KO勝ち。西城の『シンデレラ・ストーリー』は、日本でもドラマチックなスタートを切った。

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シンデレラボーイ、西城正三は立て続けに4度のダウンを喫したが、起死回生の右がピンチを救い、KO勝ちとなった。小林弘らとともに60年代後半の一時代を築いた。

1969年 1月15日

のちのフェザー、J.ライト級の世界チャンピオン、柴田国明が、ハーバート康(韓)の持つ東洋フェザー級王座に挑んだ。柴田は一方的な攻勢をかけるが、6回、康のアッパーカット一発でダウン。康の強打は日本のボクシングファンを震撼させた。

7月23日

日本J.フェザー級タイトルマッチは、前チャンピオンの清水精が、チャンピオンの中島健次郎をノックアウトする。両者はこの一戦を含めて3度対戦して、いずれも最初にダウンされた選手が逆転KO勝ち。3戦まとめる形で、最高試合賞に選出された。

12月14日

日本、タイ、東洋とチャンピオンを連覇して躍り出たホープ、大場政夫が、WBA世界フライ級王者バーナベ・ビラカンポとノンタイトルで対戦。20歳の若武者は歯切れのいいワンツーパンチで王者を圧倒し、判定勝ちを手に入れた。大場は10ヵ月後、タイのベルクレック・チャルバンチャイをKOで倒して世界王座に 登りつめ、その後5度の防衛を成功させる。しかし、1973年、世界チャンピオンのま ま交通事故で死去する。

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ハンサムな容姿からは想像もつかないたくましさを見せつけた大場政夫。23歳で世界チャンピオンのまま事故死したが、ボクシング・ファンには永遠のヒーローとして生き続けている。戦歴は38戦35勝(16KO)2敗1分け。

1953年 7月

力道山が日本プロレス興行を設立。翌年、日本で初めてのプロレス興行が行われ、テレビ放映される。日本のプロレスの幕開け。

1954年 12月22日

元関脇・力道山が柔道の鬼・木村政彦を破り、初代日本ヘビー級王者となる。

1957年 10月7日

後楽園球場でNWA世界選手権ルーテーズ対力道山戦が行われ、テレビの視聴率はなんと87%にもなった。

1960年 4月

ブラジルよりアントニオ猪木入門。ジャイアント馬場入門。

1962年~63年

力道山が国民的英雄となる。まさに力道山プロレスの絶頂期だった。

1963年 12月

力道山、暴漢に刺され、突然死去。プロレス界は大揺れとなる。その後、豊登の時代が続く。後楽園ホールでもプロレス興行が始まる。

1965年

ジャイアント馬場、日本プロレスの新エースとなる。

1966年 4月

猪木、東京プロレスを設立するが、1年後に日本プロレスに復帰。

1968年 2月

ジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI砲コンビがホールでも人気を集める。71年12月まで日本プロレス第2期黄金時代を生んだ。

6月

全日本女子プロレスが発足した。

9月

「キックの鬼」沢村忠が一躍注目を浴び、キックボクシングが大ブームになる。

1969年

日本テレビに続いてNETテレビ(現・テレビ朝日)もプロレス中継を始める。

写真提供:東京ドーム/ボクシング・マガジン

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