TOKYO DOME CITY TOKYO DOME CITY

東京ドームシティ メインメニュー

閉じる

閉じる

後楽園ホールの格闘史

1980年~1989年

  • ボクシング

  • プロレス

1980年 1月3日

技巧派の中島成雄が、WBC世界J.フライ級王者の金性俊(韓)に挑んだ。中島は前半から金を打ちまくり、10回にはKO寸前まで追い込んで文句ない判定勝ちを収めた。中島は駒大出身で、日本初の学士世界王者となった。

[写真]

予定されていたカードが中止になり、ピンチヒッターとして組まれた世界戦。中島はもともとフライ級で減量苦が囁かれていたが、みごと判定勝ちを収めた。

1981年 3月1日

全日本新人王決定戦ライト級決勝は、『浪速のロッキー』こと赤井英和と尾崎富士雄の対戦となった。赤井の猛烈なアタックに尾崎は圧倒され、3回ついにキャンバスに這いつくばった。しかし、赤井はその4年後(1985年)の2月5日、大和田正春との試合で追ったダメー ジがもとで脳内出血を起こし、無冠のままボクシングをあきらめることになる。

[写真]

赤井にボディブローをしたたか打ち込まれた尾崎は、3回にグロッキー。尾崎はのちに日本ライト級、東洋太平洋ウェルター級でチャンピオンになったが、赤井は残念ながら無冠に終わる。

1982年 3月23日

東洋太平洋王者の村田英次郎と日本王者、磯上修一の東洋太平洋タイトルマッチは、バンタム級のライバル同士の激突として人気を呼んだ。才気が冴え渡る村田の鋭いボクシングに磯上は最初から圧倒され、3回、村田の右ストレートで試合は終わった。

4月13日

沖縄のナイスガイ、友利正が、アマド・ウルスア(メキシコ)に判定勝ちし、WBC世界J.フライ級王座を獲得した。

10月10日

渡喜敷勝男、WBA世界J.フライ級タイトル戦で、金成南(韓)を15R判定で下し、3度目の防衛に成功した。

1983年 9月6日

ジャッカル丸山対関博之の日本J.バンタム級タイトルマッチは、火の出るような打ち合いに終始した。お互いダウンを奪い合い、6回丸山の連打で関を仕留める。合計9度のダウンは日本タイトルマッチでは最多記録だが、数字以上に、肉体をさらけ出して戦った両者の闘魂がいまだにオールドファンの胸を熱くする。

1984年 1月18日

WBC世界フライ級タイトルマッチはドラマチックな世界王座奪取だった。王者フランク・セデニョ(比国)が力強いスタートを切るが、サウスポーの挑戦者、小林光二の左ストレートが炸裂。連打に次ぐ連打でグロッギーに陥った王者はダウンを繰り返し、ついにレフェリーストップ。小林が王座に。

[写真]

173センチの長身、サウスポーの小林光二は、打ち下ろすような左ストレートが武器だった。WBC世界フライ級チャンピオンになるが、初防衛でKO負けを喫してタイトルを失う。

9月9日

利き腕の左拳を4度も骨折しながら不屈の闘志でKO勝ちを重ねてきた浜田剛史は、元世界王者のクロード・ノエル(トリニダード・トバゴ)を圧倒。4回、左ストレートが見事に決まり、13連続KOの日本新記録となる。この連続KOを『14』にまで伸ばした浜田は、のちのWBC世界J.ウェルター級王者である。

1985年 5月9日

WBA、WBC両方で世界J.バンタム級王者となった名選手、渡辺二郎が、唯一、東京で行った世界タイトルマッチ。フリオ・ソト・ソラノ(ドミニカ)との一戦は無難にポイントを集めた渡辺の判定勝ち。渡辺はこの勝利でWBC2度目の防衛、WBA王者時代から通算すると世界戦10連勝をマークした。

[写真]

大学時代に日本拳法で鳴らした浪花のヒーロー渡辺は、非凡さを発揮。WBA、WBCの世界チャンピオンとなり、野心を持ったサウスポーのボクサーとして人気を呼んだ。

1986年 1月9日

日本J.ウェルター級タイトルマッチ、チャンピオンの田名部雅寛に、平仲明信が挑んだ10回戦。けた外れのパワーで平仲がチャンピオンを追い詰める。6回、痛烈な右が炸裂して田名部はダウン。のちの世界王者、平仲のこれがプロ4戦目だった。

1月23日

日本最初のストロー級(現ミニマム級)の試合が行われた。この日がデビュー戦の井岡弘樹、そして寄特由紀雄の4回戦。17歳になったばかりの井岡は、長身からの伸びのいいパンチで寄特を3回KOに討ち取る。井岡は22ヵ月後、18歳の若さで世界チャンピオンにとなる。

9月25日

A級ボクサー賞金トーナメントは、熱心なファンの喝采を浴びた。メインイベントともなったバンタム級決勝は高橋直人(後にナオト)と島袋忠司。不敗のまま台頭してきた高橋の左フックで島袋の体がキャンバスに落ちる。

[写真]

一切のスキのない白熱の技術戦を展開する高橋と島袋。互角、もしくはわずかに島袋優勢で迎えた8回、島袋の軽いダウンで勝敗は振り分けられた。

1987年 1月12日

日本フェザー級王座決定戦、前チャンピオンの杉谷満対飯泉健二のKOシーンも印象的なものだった。最初の2ラウンド、一瞬やや勝負をはやって打って出た飯泉に、杉谷の強烈な右で決着。前のめりに倒れた飯泉は、そのまま立てなかった。

1988年 4月18日

のちに世界チャンピオンとなる鬼塚勝也のデビュー戦が行なわれた。対戦相手の秋山昭次を1RKOで飾る。

5月16日

バンタム級8回戦に登場した薬師寺保栄は岡部繁を相手に接戦を展開したが、判定負け。薬師寺はのちにWBC世界バンタム級チャンピオンになり、なおかつ人気絶頂の辰吉丈一郎に土をつけるような名ボクサーになろうとは、まだ誰も予感できなかった。

[写真]

名古屋のホープと呼ばれた薬師寺は、このとき4戦2勝2敗。のちにWBC世界バンタム級チャンピオンになり、タイトルを4度防衛した。

12月21日

東日本新人王戦フライ級決勝は、魅力的な新星が激突した。川島郭志、ピューマ渡久地とも高校ボクシング界のエース。攻めに徹する渡久地と、巧妙な守りからカウンターを狙う川島の息詰まる熱戦が続き、最終6回。渡久地が川島をノックアウトする。川島は後の世界王者、渡久地も日本王座に駆け上った。

1989年 1月22日

マーク堀越対高橋ナオトの日本J.フェザー級タイトルマッチは、文字通りの死闘だった。逆転に次ぐ逆転で9回、高橋ナオトがマークを沈める。

[写真]

両者合わせて4度ダウンの末、これぞ究極の逆転劇。高橋は数多くの激戦を演じ、『逆転の貴公子』の異名とともにファンの胸にその記憶は刻まれている。

1981年 1月18日

ジャイアント馬場、3000試合連続出場突破記念試合を行う。

4月

劇画で人気のタイガーマスクが登場。プロレス第3期ブームになる。当時はジャンボ鶴田、天龍源一郎、藤波、タイガーマスク、前田日明、高田延彦、藤原喜明らが活躍した。

国際プロレス、倒産。馬場の全日本と猪木の新日本の興行戦争が始まる。

1982年 10月8日

メキシコ遠征から帰国した長州力が藤波辰巳に対して、「オレはおまえの噛ませ犬じゃないぞ」と宣戦布告。以降、藤波対長州の戦いが始まる。

1983年 1月

後楽園ホールを舞台に全日と新日が初の昼夜興行を行う。

6月

長州力とアニマル浜口がフリー宣言。4ヶ月後には維新軍団を結成する。

8月

ライオネス飛鳥&長与千種のクラッシュ・ギャルズが人気を呼ぶ。88年まで圧倒的人気が続く。

1984年 12月

長州力が新日本を脱退し、ジャパンプロレスを旗揚げ。だが、87年には新日本に復帰する。

1986年 8月17日

ジャパン女子プロレスが後楽園ホールにて旗揚げ。メインイベントとして神取忍のデビュー戦(対ジャッキー佐藤)が行われた。

1987年 11月

前田日明がホールでの試合で長州力の顔面を背後から蹴り、長州力は右前頭底骨を骨折。前田は事実上、永久追放となった。

1988年 5月

85年に一度崩壊したUWFが前田追放を機に新UWFとして復活。後楽園ホールで旗揚げされた。

1989年

大仁田厚がFMWを旗揚げ、金網電流爆破マッチという試合を生み出す。ホールでも金網マッチが話題を呼ぶ。その後、新団体が乱立し、プロレスの新時代を迎えた。

写真提供:東京ドーム/ボクシング・マガジン

  • 本サイトに掲載の記事・写真の無断転載は固く禁じます。

後楽園ホールの格闘史