後楽園ホールアーカイブス

ザ・インタビュー

ちばてつや 「後楽園ホールにはたくさんのドラマがあり、人生がある」漫画史にも残る迫力と感動のボクシング巨編、「あしたのジョー」。リングに命を賭けて燃え尽きる野生児・矢吹丈のボクシング人生は、多くのファンを魅了し、ボクサーたちの憧れとして語り継がれている。その「あしたのジョー」でも後楽園ホールは数々の名勝負を生んだ。作者のちばてつや氏に「あしたのジョーと後楽園ホール」について語っていただいた――。

ジョーのように完全燃焼したい

夢に向かってどれだけひたむきなのか。人間の表情がたくさんあって、ドラマを噛みしめられるのが後楽園ホールだと思う。

後楽園ホールが昔と変わったところといえば、観客席ですか。見に来ている人がずいぶん変わりました。最近は若い人が多いですよね。昔はどこか怪しい雰囲気でした。そうですね、たとえて言えば、下町のおっちゃんたちばかりというのかな。今は禁煙になっていますが、タバコの煙がもうもうと立ち込めて、自分の仲間をがさつな言葉で応援したり、そこらで酒を瓶ごとラッパ飲みしていたり。ぼくも下町育ちだから、そういう場所は決して嫌いじゃなかったんですが。
 それにコーナーの下あたりに、天井から円筒がぶら下がっていましたね。30秒経過するごとにランプが一つ一つ消えていくんです。ああ、ボクサーに残り時間を知らせるアイデアなのかなと思っていたんですが、今はもうなかったんでしたっけ。

ジョーのモデルですか? 影響を受けたというのなら一人じゃないですね。
 ぼくが初めて関心を持ったボクサーは、沢田二郎といって17歳で東洋ライト級チャンピオンになった選手です。普段は魚河岸に勤めているという彼とぼくは、実は同い年なんですね。新聞か何かで、17歳でチャンピオンに挑戦という話を知って親近感を持ったことを憶えています。最初に見に行ったのも彼の試合だったと思います。ぼくがボクシングを描いた最初の漫画は、『魚河岸チャンピオン』(1965年)というんですが、モデルというわけではないけれど、沢田のことがイメージにあったのは確かでしょう。
 ジョーという人物のなかには、その沢田もいます。昭和30年代に人気があった青木勝利、海老原博幸も。メガトンパンチの青木、カミソリパンチの海老原と呼ばれたくらいにパンチがあって、ファイティング原田と一緒に三羽ガラスと言われたんですね。それから世界王者のまま交通事故で亡くなってしまった大場政夫。戦前に拳聖と呼ばれた名ボクサー、ピストン堀口の姿も重なっています。いろんなボクサーたちのイメージがあわさって、ジョーというまったく別の個性が出来上がったんだと思います。

ぼくは漫画を描きながら、ずっと登場人物と会話をしています。彼らが何を考え、どういう思いをしているのか、そう考えながらペンを走らせます。夢にも出てきます。彼らの懸命さに応えてあげたい。だから、ぼくも一生懸命に描きます。1日1日が私の人生そのものです。無駄にはしたくない。お風呂に入るのさえ、ダラリとするのではなく、一生懸命に洗います。ジョーの生き方そのものが完全燃焼だったように、ぼくも与えられた時間の中で、常に完全燃焼したい。それこそジョーのように真っ白になるまで生きて、描いて、そして死んだように眠るんです。

そんなぼくが殺してしまった力石は、苦しかったと思います。ジョーの気持ちに応えるために、ずっと体が大きいのに、あれだけの減量に耐えたんです。水も飲まず、食べたいものも食べず、ジョーとの戦いにすべてを犠牲にしたんです。
 力石が後楽園ホールでの試合で死んでしまったあと、実際に葬儀がとりおこなわれたり、むしろジョーより人気があったかもしれませんね。初めてジョーと戦うのは鑑別所の中なんですが、原作者(高森朝雄)としては、ジョーが乗り越えなければならないひとつの壁というキャラクターだったんだと思います。ところが、その力石が人気が出てしまったんですね。彼の体格についても、原作者からの指定はなかったと思います。原稿を読んで、私がつい大柄に描いてしまったから、彼に後であんなにつらい思いをさせることになってしまったんです。

裏話になりますが、ちょうどあのころ、テレビ化が決まって、「力石を永遠のライバルとして、生かしておこうじゃないか」という話があったんです。話し合いもしました。けれど、ぼくは殺してしまいました。あんなに苦しい思いを、何度もさせないといけないのか、と。あれでケロッとしていたらうそになる…。ぼく自身の気持に対して、どうしてもうそを描けなかったんですね。