ザ・インタビュー
日本ボクシング史上、もっとも偉大な瞬間はと問われたなら、そのひとつに『この場所のあの時』を選びたい。1995年12月19日の後楽園ホール。竹原慎二がWBA世界ミドル級チャンピオンになったときである。ミドル級の世界チャンピオンの座は、日本人にとっては、あるいはヘビー級チャンピオンより獲得は難しいとも言われた。160ポンド、72.57キログラムというこのクラスのリミットは、ボクシング先進国の米国やヨーロッパの平均的な体格である。層の厚さ、選手個々の能力は日本とそれとは格段に違うとされた。だが、竹原は186センチの長身から繰り出す強打で、キャリア100戦で1度のKO負けのないアルゼンチンのチャンピオン、ホルヘ・カストロからダウンを奪った。そして、中盤から終盤戦と果てしなく続く壮絶な打撃戦にも耐え抜き、見事にチャンピオンシップを射止めたのだ。あれから7年、リングを去った竹原は、人気テレビ番組『ガチンコ! ファイトクラブ』の鬼コーチ役として、ボクシングの伝道者としても活躍している。
観客との一体感が闘争心をかきたてる
運。そう、ぼくが世界チャンピオンになれたのは、運も味方してくれたと思います。練習してたことが的を得て、実際試合をしてみて噛み合わせが良かったと思います。カストロはパンチは重かったけれど、スピードは想像よりもなかったし、テクニックもそれほどではなかったですね。でも、タフで突進するパワーがものすごい選手でした。
ただ、ぼくがミドル級世界タイトルを獲ったことが偉大なことだと言ってくれるのは、ボクシングをよく知っている人だけですよ。一般の人たちはきっと、それほどの大事だとは思っていないんじゃないですか。
でも、ぼく自身にとって、すべての試合の中でもっとも満足できる一戦と言ったら、やはりカストロ戦ですし、運をつかむために、それだけの練習をやってきた自信もあります。そしてもっとも運がよかったのは、あのタイトルマッチの舞台が、後楽園ホールであったこともあるんじゃないですか。
ぼくにとって、後楽園ホールはボクシングの始まりであり、成長してきた場所でもあります。プロテストを受験し、17歳でプロにデビュー。同じ年で東日本新人王になり、19歳で日本チャンピオン、21歳で東洋太平洋チャンピオン。みんな後楽園ホールで勝ち取ってきたものです。さまざまな思い出もありますし、親しみもあります。
ここは造りがいいんですね。観客席がすごく近くて、お客さんの顔々が目線の高さにある。だからでしょうか。闘争心がどんどん沸いてくる。集まってくるファンの目も肥えています。いい試合をすれば熱心に応援してくれるし、下手な戦い方をすればひどい野次も飛んできます。戦っているぼくらも、つられるように一生懸命になる。4回戦のころから、みんな熱心に見てくれていますからね。そんな声援が、ぼくらにはプラスと言うか、大きな励みになっていました。
どのボクサーもそうでしょうが、試合前はひどくナーバスになっています。ハタケ(畑山隆則)はそうじゃなかったみたいですが、ぼくは控え室に入ってから人と接したり、話したりするのがどうしてもいやでした。とにかくひとりきりで、そのときまでじっと待っていたかった。それに直前になったら、静かに祈っていたかった。でも、ひとたびリングに上がると、気持ちに火がつく。後楽園ホールは、どうも不思議な場所ですよね。
最後まで燃焼しつくしたい それがぼくのボクシング
“最後まで戦って勝ったから、より意味のある勝利。打たれても、やり返してやれ。後楽園ホールだから、そういう気持ちでいられた。”
現役時代のぼくは、燃焼しつくしたいとばかり考えていました。ボクシングは打たせたらいけない、と言われます。たしかにその通りなんでしょうけど、とにかく目いっぱい打ち合って、最後は倒して勝ちたかった。そうできなければ、自分自身を納得させることができないと言うのか。1ラウンドであっさりとKO勝ちしたりすると、勝ったこと自体はうれしいんですが、心のどこかに歯がゆさが残ってしまいましたね。
東洋太平洋チャンピオンになった李成天戦は、みんな激戦だったと言ってくれます。6度目の防衛戦でもう一度彼と戦ったときも、ダブルノックダウンがあったりして、もっと激しい戦いだったと言われます。李はパンチがすごくあって。それに彼は背が小さかったから、ぼくの方がリーチもずっと長かったんです。アウトボクシングをした方が楽に戦えたじゃないか、と周囲には言われましたが、正面から打ち合ったことがよかったと思ってます。今だから話せますが、李との試合のときは故障していて、最初から苦戦は覚悟していたんです。そのせいで、今でもいい試合と言われるような戦いになったのかもしれません。それに、あのときから左目がおかしくなり、あとで網膜はく離とわかって、ボクサー生命を縮めることになったんですけど。
カストロとの戦いもそうです。一番満足できたことは、12ラウンドまでフルに殴り合えたこと。チャンピオンは並外れたタフガイだと評判だったし、打ち合いにはずば抜けて強いと言われていましたね。予想では圧倒的に不利でした。絶対に勝てない、判定までたどり着くこともありえない、アウトボクシングに徹すれば一縷の望み、と新聞や雑誌にさんざんに書かれていました。自分では死んだつもりで戦ってやる。アウトボクシングをやれと言うけど、ふだんあまりフットワークを使わない選手が、いまさらよそ行きのボクシングをやっても仕方ないと思っていました。打ち合いが得意と言うなら自分もそうだから、正面からやり合って相手のペースを切り崩そうと。それからボディを狙おうと作戦を立てて、ジムでは左フックと右アッパーを徹底して練習してましたね。
その練習が実を結んで、3ラウンドに左フックのボディブローでダウンを奪ったんですが、結果的にはKOにならなくて良かったんでしょうね。あそこで終わっていたら、ラッキーパンチと言われていたかもしれません。実際に、後で「カストロの腹はぜい肉でダブついていた」と書いたところもあったし。あの後も打ち合って、最後まで戦って勝ったから、より意味ある勝利じゃないんですか。効いたパンチもありましたけど、多少打たれても、それなら、やり返してやれという気持ちで戦えたんで。いつもの後楽園ホールだから、そういう気持ちでいられたのかもしれません。
世界タイトルを失ったのは、横浜アリーナでしたね(1996年6月24日、ウイリアム・ジョッピーに9回TKO負け)。1万4000人くらいの人が入って、後楽園ホールとは違って、まずは雰囲気にのまれてしまいました。それにぼくの左目はカストロ戦から視力が低下してきていて、精神的にも弱くなっていました。それとは逆にジョッピーはぼくがカストロ戦で燃えたように、死んでもいいからという気持ちで向かってくるし、こっちは怪我をしたくないという気持ちで、すでに負けていたかもしれない。結局、レフェリーが試合を止めてくれたんですが、あのときはホッとした気分もありました。
結局、この試合が最後になったんですね。試合後の検査の結果、網膜剥離と診断されて…。まだ24歳だったから、もちろん、もっとやりたい気持ちもときどき沸いてきましたが、ぼくの場合は網膜はく離がいい意味で踏ん切りをつけてくれたような気がします。
ボクサーにとっての登竜門 夢に向かうひたむきさを見てほしい
“やるなら妥協してほしくない。大切なのは夢をもつこと。試合を見に来る人にもボクシングは必ず何かを与えてくれる。”
ずっと負けなしで世界チャンピオンにまでなったんですが、ぼくのボクシング生活は決して楽ではありませんでした。金や名誉のために戦ってきたわけでもありません。故郷の広島でわるさばかりしていて、少しばかり腕には自慢があったのに、16歳で上京したとき、ジムの先輩たちとのスパーリングで軽くあしらわれてしまったのが、ボクシングにのめりこんだ最初のきっかけでしょうね。いつか倒してやると思ってがんばってきたんです。体が大きいから減量もきつかったですね。その影響で体調を崩しやすくなって、試合前に何度も大熱を出しています。
苦しい思いをさんざんしても、それほどの大金が入ってくるわけじゃない。それでも東洋太平洋チャンピオンになったあとからは、ほかの仕事をやめてボクシング一本でした。とにかく1度負けるまでは、これだけに賭けようと決意したんです。そうできたのは、試合に勝った後の開放感、達成感があったからでした。
引退してからも生活は変わらなかったですね。世界チャンピオンと言っても、防衛していないから金はない。知名度もない。残ったのは肩書きと、プライドの高さだけ。ファンから声をかけられるのも、後楽園ホールに出かけたときにだけ。いざ仕事をしたいと言っても何もないんです。今になってやっとです、安定してきのは。すべてはテレビに出たおかげですよね。
『ガチンコ!』についてはいろいろと言う人もいるみたいですが、ぼくはボクシング界に貢献しているつもりです。後楽園ホールに来る人たちも変わってきたでしょう? 昔はどことなく暗い雰囲気でした。若い女性なんていなかったですね。今は違います。やはりテレビの力というのは、大きいんですね。
え? 『ガチンコ!』に出ているヤツらですか?ま、ぼくのほうが強いでしょう。けど、とにかくスタートラインに立つことが大事。やるんなら決して妥協してほしくない。そうすればきっと何かがつかめると思います。試合に勝つ喜びはもちろんとして、口では言い表せないけど、何かがリングにはあるはずです。大切なのは夢を持つことです。
試合を見る来る人にも、ボクシングは必ず何かを与えてくれると思います。4回戦だって、いい試合はたくさんあります。彼らは金のために戦っているんじゃない。それでもあそこまでのことをやっている。後楽園ホールに行けば、見る側の人も必ず何かを感じられると思います。
現役時代、ファンレターをよくもらいました。文面には「感動した」とか「励みになった」とか書いてありました。そのころは、そう言われる意味がわかりませんでした。「オレはオレのためだけにやっているのに」とけげんな気分になっていました。でも、引退した今、「そうか、自分にも伝えられたものがあったんだな、」と初めて思えるようになりましたね。「勇気がもてた」と言われれば、素直にうれしいです。
ぼくがこういうことを言えるのも、ボクシングがあったからです。テレビにも出ているし、こうして発言もできます。経営しているイタリア料理店にも、わざわざ遠くからお客さんが食べに来てくれます。ボクシングをやっていなかったら、ハンパな人生をいまもって送っていたかもしれない。そういう意味でも、ボクシングはぼくの人生のすべてです。
少年時代、名うてのワルだった。喧嘩ばかりの日々だった。「広島の粗大ごみ」と呼ばれていたこともある。そのままだったら、今ごろ「瀬戸内海に沈められて、生きていないかもしれない」とも言った。そんな竹原だから、『ガチンコ!』のリーダー役は、あまりにはまり役に思える。
自身の言葉にあるように、彼がリングで得たものは金ではない。至高の高みにあるミドル級の頂点に輝きながら、その偉業にふさわしい名誉もなかった。ただ、もっと大きなものを得た。どんな形でもいい、勇気を持ちなさい。その勇気を運んでくれる夢を持ちなさい。そんな語るべき言葉を、その肉体で刻み、なおかつ伝えられる場を持った竹原のボクサー人生は、やはり幸せである。
(インタビュー 2002年1月9日)
歴史を変えた1995年12月19日。186センチの身長から繰り出す強烈なパンチで、チャンピオン・カストロに決してひるむことなく挑んだ結果、日本初のミドル級王者誕生という快挙につながった。
3ラウンド、左フックのボディブローでダウンを奪い、その後もペースを握り続けた竹原は2~6ポイント差の判定で快勝。まぎれもなく世界一のミドル級チャンピオンとなった。
写真提供/ボクシング・マガジン
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竹原慎二:プロフィール
たけはらしんじ 1972年1月25日、広島県生まれ。
1989年、17歳でプロデビューし、翌年、全日本ミドル級新人王を獲得。1991年に西條岳人に7回KO勝ちして日本ミドル級王座を獲得。この王座は4度防衛。2年後、李成天との王座決定戦に12回KO勝ちし、東洋太平洋同級王座につき、6度防衛。1995年、ホルヘ・カストロに判定勝ちして世界ミドル級王座を奪ったが、翌年、ウイリアム・ジョッピーに敗れて王座転落。網膜はく離が判明し、そのまま引退した。25戦24勝(18KO)1敗。引退後はイタリア料理店『Campione』を経営しながら、タレントとして活躍。とくにTBSの『ガチンコ!』で人気が炸裂した。