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ザ・インタビュー

高橋ナオト 「激闘だったマークとの一戦、感動したと言われればうれしい」

これだけは断言できる。その後、『逆転の貴公子』と呼ばれる高橋ナオトが、マーク堀越を相手に演じた、あの後楽園ホールでの戦いは、ボクシングというスポーツが生んだ最高傑作のひとつである。1989年1月22日、日本バンタム級王座を失い、1階級上のJ.フェザー級(現S.バンタム級)に転向したナオトは、ここまで6度の防衛戦にすべてKO勝ちしたマークが保持する王座に挑んだ。現在JBスポーツ・ボクシングジム会長として、後進の指導に当たっている高橋ナオトの言葉を聞く前に、このあまりにもドラマチックな一戦を、もう一度なぞっておかなければならない。
立錐の余地もないほどの観客に埋め尽くされた後楽園ホールは、まさしく逆転に次ぐ逆転に沸きかえる。3ラウンド、左フックを浴びてダウン寸前に追い詰められたナオトは、続く4ラウンドもマークの強打に打ちのめされたものの、ナオトが放った一瞬の右パンチで展開は一変する。普段は青森県にある米軍三沢基地に勤務する黒人兵マークの体は、2度にわたってキャンバスに転がった。
タフなスピリットを持つマークも5ラウンドから反撃に転じる。8ラウンドにはパワフルな右パンチを決めて、ナオトを逆にダウンを与えた。ダメージと疲労とで、ナオトは絶体絶命に見えた。
ところが、これで試合は終わらない。9ラウンドに大きなどんでん返しが待っていた。一撃の右ストレート。これをあごに直撃されたマークはゆっくりと崩れ落ちる。やっと立ち上がったものの、その足もとは定まらない。糸のほつれたピノキオのようにリングを半周し、そしてレフェリーにストップされる。
このすさまじい試合は、後楽園ホールの観客、生中継されたテレビを見たファン、さらに新聞雑誌記者まで熱狂させた。運動記者クラブボクシング分科会が選ぶ年間最優秀試合は、通常世界タイトルマッチから選出されるが、大多数の支持を受けて、この日本J.フェザー級タイトルマッチが選出されたのである。

記憶が戻ったのは9ラウンド KOパンチは自然に動いた

実は、あの試合の第1ラウンドから8ラウンドまでに起こったことは、よく憶えていないんです。後になって、2ラウンドまではポツリポツリと思い出せるようになりましたが、3ラウンドからは今もって記憶の中から抜け落ちたまま。2度もマークを倒したことも、ダウンを奪い返されたぼくがキャンバスをたたいて悔しがったことも憶えていません。たぶん、3ラウンドにマークの左フックを食ってからでしょう。あとは無意識状態で戦っていたということです。
我に返ったのは、8ラウンドが終わって、コーナーに帰るころですね。あれ、もう9ラウンドになるんだ、と突然気がついたんです。そうして確かめてみると、体はへとへとだし、ダメージも相当あって、これはやばいんじゃないのかな、と。

最後のラウンド、意識ははっきりしていました。KOパンチは、左手でフェイントをかけておいて、ガードがあいたところに狙った右パンチです。ずっと練習してきた攻撃でした。もう疲れきっていましたが、体が自然に動いたんですね。
9ラウンド以前に何があったかは、あとになってビデオでようやく知りました。激戦だったんですね。ぼくも本当に効いていました。あのまま行ったら、判定では負けていたでしょうね。でも、率直に言っておもしろい試合じゃないですか。一般のファンの人が、一番見たがるような戦いだったと思います。ぼく自身、ビデオで10回くらい見ていますが、いつ見てもおもしろいんですから。

見ていておもしろい それが理想のボクシング

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“後楽園ホールは、自分の居場所みたいなもの。23試合やってるうちの21度がここ。応援に来てくれた友達もすぐにみつけられました。”

そう、ほかにもノーリー(ジョッキージム)との試合もあります。マーク戦から4ヶ月後に、やはり後楽園ホールでタイのチャンピオンと戦ったんですが、あのときも逆転KO勝ちでした。2ラウンドにダウンされて、とことん効いてしまったんです。足を踏ん張ることも難しかったんですが、次の3ラウンドで倒しました。マークのときも『逆転の貴公子』と一部で言われたようですが、みんなにそういうニックネームで呼ばれるようになったのは、このときからです。それだけ、ぼくのボクシングに、ファンの人が喜んでくれた証拠じゃないんですか。

だいたい、プロボクシングは倒すか倒されるかが、魅力のすべてだと考えています。お金を払って見に来てくれるファンに対して、とにかくエンターテイメントに徹して、見ていておもしろい試合をする。ぼくの理想です。マークとの一戦はまさに、その理想に近いボクシングじゃないかと思います。
それに、そもそもぼくは目立ちたがり屋ですからね。目立とう精神だけでした。4回戦のときからずっと。全部のラウンドで、ぼくはKOを狙っていました。打ち合って派手に倒したい、そして注目されたい、とそれだけを考えて戦っていました。

教えてくれていた会長(故阿部幸四郎氏=アベジム会長)は、フットワークを使って距離をとったりして、守ることが大事だといつも言っていましたが、ぼくの考えは初めから違っていました。あのころはまだ子供でしたから、なかなか自分の意志を通すことはできませんでしたが。
だって、玄人好みの技巧とか、そういうものに興味があるのは、ボクシングファンの1%くらいでしょう。あとの99%は派手なKOや、見ていてハラハラするような激しいパンチの応酬が好きなんだと思います。となれば、試合に勝つためならなりふりかまわずに守ってばかり、ポイントだけ稼ぐような戦い方をして、たとえ20連勝や30連勝しようとも、評価されるでしょうか。プロとして、難しいボクシングは意味がないんじゃないですか。
それに、本音を言うと、ボクシングを見ることはそんなに好きじゃないんです。見るんだったら、プロレスの方です。プロレスにはけっこう詳しいんですよ。後楽園ホールにもボクシングの試合よりたくさん行っているでしょうね。

ボクシングについて興味があったのは、自分自身がやることについてだけです。だから、ぼくはうそをついてますね。引退した後、『ボクシング・ジャンキー』という自身のボクシング論を書いて、ナンバー・スポーツノンフィクション新人賞をもらっているんですが、本当はボクシングではなくて、高橋ナオト・ジャンキーなんです。教える立場になった今も、練習生に指導するとき、いつも見比べているのはぼく自身です。
そういうぼくにとって、ボクサー時代の後楽園ホールは、自分の居場所みたいなものでした。23試合やってるうちの21度がここでのものですから。観客席が近くにあって、応援に来てくれた友達もすぐに見つけられるし、なぜか安心感がありました。

ノーリーとの再戦(1990年2月11日)に負けたのは、後楽園ホールでの試合ではなかったせいかもしれません。あのときはマイク・タイソン対ジェームス・ダグラスの世界ヘビー級タイトルマッチの前座として、東京ドームでやったんです。
5万人以上もの観客を集めるわけですから、当然すごい会場であるわけで、そこで戦えるのは晴れがましくあります。さらにもしこの試合に勝ったら、世界に挑戦できるという話も聞いていました。でも、どういうわけか緊張感が沸かなかったんです。あまりに広すぎて、いつも見える友達の顔が見えない。声援も聞こえてこない。だからだったんでしょうか。試合が始まってからも調子が出なくて、ノーリーに6度もダウンを奪われて判定負けしたんです。

リングに向かうときの緊張感は今でも忘れない

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“地方の選手にとっては聖地。その場所で戦ったぼくとマークの試合に対しては、感動を憶えているって。素直にうれしいですね。”

いつもの後楽園ホールでは、安心感とともに適度の緊張感を持つことができました。試合前の計量もあそこでやっていましたが、そのときにまず硬くなります。ウェートが苦しくて、相当な減量をしていましたから。最後の数日間は、カロリーを抑えるために、食べるのはしいたけだけということもありました。だから、秤に乗るときは常に不安でした。
それからもう一度緊張するのは、控え室を出て、リングに向かうときですね。とくに赤コーナー側から出るときは、控え室のある4階から、狭くて折れ曲がっている階段を登って、5階の会場まで上っていかなくてはいけない。早くここを登りきって、とっとと戦いたいと毎試合思っていました。リングに上がったら、もう腹をくくれるんですけど。

そのほかのホールの思い出というと、いろいろと縁起を担いだことでしょうか。計量が終わったあと、どこの自動販売機で何の銘柄のジュースを飲むのかも決めていました。一度会場を出て、久しぶりのまともな食事を摂るんですけど、入るレストランもメニューも決まっていましたね。
ボクサーであるぼくにとっての後楽園ホールは、試合のときは特別でも、ある意味では日常の場所でもあります。でも、地方の選手にとっては、まさしく聖地なんでしょう。山形県のボクシング関係者に友人がいるんですが、話を聞くと、そこの選手たちにとって、後楽園ホールのリングに立つことは、大きな目標なんだそうです。ちょうど高校野球の選手が甲子園に行くこと目指しているように、彼らにとってはこの後楽園ホールが夢なんですね。そう思うと、ぼくらは恵まれていたのかもしれません。

その場所で戦ったぼくとマーク堀越の試合に対しては、今もファンのみなさんが言ってくれます。すごい試合だった、感動を憶えているって。素直にうれしいですね。しかし、あのとき、ぼくにとってはそういう一戦も過程であり、ひとつの通過点でしかありませんでした。リングに残したほかの22の戦績と一緒、なんら変わりませんでした。
とにかく倒したい、ファンを沸かせたい、目立ちたい。そういう試合を積み重ねた先に、世界チャンピオンの座がきっとあると信じていたんです。

世界チャンピオンになれなかったが、高橋ナオトほど、ファンに愛されたボクサーはいない。少年の面影を残す細面に、頼りなげな痩身。しかし、彼がリングに描くドラマは常に熾烈だった。倒すか倒されるかのスリルに、全編にわたって彩られた。一瞬の間合いで打ち込まれるそのカウンターの凄みに、多くが酔いしれた。そして、ときに痛烈に打ち倒される姿に、だれもが打ちひしがれた。
彼のラストファイトが忘れられない。朴鍾弼にノックアウトされた。1991年1月12日、やはり後楽園ホールでのことだった。深刻なダメージを蒙ったナオトは、身動きひとつしないまま担架でリングを去った。満員のファンは誰ひとりとして帰らなかった。一言も発しなかった。ただ立ち尽くし、ヒーローの退場を見送った。

その後、脳内出血が判明して、ナオトのボクシング生命は絶たれた。「夢も希望も失い、抜け殻のようだった」。24歳の若さにはつらい現実である。だが、人々は忘れてはいなかった。彼とマークの試合に感動した漫画家の森川ジョージ氏が、『はじめの一歩』を描いた。その森川氏がオーナーとなり、ナオトにJBスポーツジム会長として、第2のボクシング人生にチャンスを与えてくれるのだ。後楽園ホールはやはりボクサーたちの、夢作り工房なのである。
(インタビュー 2000年1月11日)

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打ちつ打たれつ、逆転に次ぐ逆転の戦いとなったマーク堀越戦。息をのむファンは何度総立ちとなったことか。この一戦は後楽園ホールのベストバウトの一つといえよう。

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マークにダウンを奪われ、記憶を失った3回からは無意識の戦いとなったが、9回には意識を取り戻し、みごと大逆転のKO劇を演じた。

写真提供/ボクシング・マガジン

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高橋ナオト:プロフィール

たかはしなおと 1968年11月17日、東京都調布市生まれ。
東京農業高校時代、アベジムから高校生ボクサーとしてプロデビュー。1987年に今里光男をKOしてバンタム級、1989年にマーク堀越を破ってJ.フェザー級と日本タイトルの2階級制覇を達成した。センセーショナルなKOを生み出す天性のカウンターパンチと、逆転の連続の壮絶な戦いで、空前の人気を作った。現在は東京・綾瀬でJBスポーツクラブ会長。

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